昭和45年(1970年)5月15日に秋田大学医学部1期生の入学式があった。オリエンテーションを行う男鹿温泉に向けて入学式直後、2台の観光バスに分乗して出発した。途中、昭和39年(1964年)に完工した八郎潟干拓地を抜けて寒風山に上がった。そこから見る干拓地は雄大で受験勉強から解放されたこともあり、その光景に強く感動した。干拓地では細い承水路を超える道路は将来の地盤沈下を想定して高くしてあるとのバスガイドの説明で、バスは超えるときに確かに上下に弾んだ。 私はすぐに陸上部に入部し、その年9月の八郎潟駅伝では20人以上いた長距離選手の中でアンカーに抜擢された。当時は木々もあまり茂っておらず、野石の橋の中継点からは殺風景な景色の遥か向こうにゴールの大潟村の家並がはっきりと見えていた。5位でタスキをもらい先行の4位とは3分以上離れていたので抜くのは不可能なのだが、思い上がっていたのだろう、かなりのオーバーペースでスタートしてしまった。大潟村の家並がずっと見えていたので、そのままのペースで走ったが、残り1㎞くらいで右に直角に曲がりおよそ2kmコの字形のコースが残っていた。試走は無く、油断してコースもしっかり確認していなかった。「マズイなあぁ~」後ろから2人が競り合いながら追い上げて来て、後ろを向くたびに伴走車から叱咤された。この時、汗か涙でかすみ大潟村の家並は、あたかも砂漠のオアシスのようにずっと見えていた。何とか5位のままでたどり着けた。 10年以上前、松江の学会で市内に宿泊施設が足りず特急で30分程度の出雲市にホテルをとった。翌朝の特急で「次はシンジ」と言う車内放送に「変わった名前の駅だなあ」と思って見た駅の看板には宍道湖の「宍道」と書いてあった。そう言えば秋田県には「八郎潟」の駅がある。宍道駅を過ぎてすぐ車窓から宍道湖が洋々と見えて来た。昨日からの悪天候で風が強く、湖面は荒々しく遥か先まで波立っていた。列車で能代方面に向かうとき、八郎潟駅を出て三倉鼻を過ぎる頃に干拓地が見えてくるが、昔は宍道湖のような光景が拡がっていたのだろう。車で干拓地を通るとき、50年前にバスガイドが教えてくれた細い承水路のバウンドはいつ頃からか気づかなくなった。道路や承水路脇の並木や雑草も50年ですっかり生い茂り、大潟村の家並もあの頃のようには望めない。桜も壮年期を迎えて花に勢いがある。僅か50年での干拓地の様々な変化をあらためて見直してみると、ヒトがほんの少しの間、居なくなるだけで自然は自ずから回復するのではないかと思えてしまう。50年前のあの時、寒風山から眺めた干拓地の感動は確かに心に刻まれてはいる。しかし八郎潟駅を過ぎてから車窓に見えてくるだろう八郎潟が見たかったなあ。
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