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<春夏秋冬>

発行日2023/05/10
平野いたみのクリニック  平野 勝介
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人生の恩人
 
 「お前の体力では社会で通用しない」
 入学した私立中学1年担任の熱血教師は間違いなく恩人である。9月から担任が顧問をする陸上部に入部してロードに出たのが始まりである。高校でも陸上部に入った。初日の授業から大学受験の話で、陸上部の仲間達と「高校生活の思い出など残らない」と言い合ったのが、2年の秋までに私以外皆退部した。裏切られた気持ちでダラダラと3年12月まで練習した。浪人中も練習は続けて予備校運動会1500mで2年連続優勝してしまった。2浪の11月、予備校帰りの駅のホームに夕方5時頃の弱い西日を受ける「第1回全日本大学駅伝」のポスターを見つけた。当時は1月第3日曜日の開催で、1月までポスターは掲示されていた。
 昭和45年5月15日、国立3期として秋田大学に入学した。直ぐに陸上部に入部したが長距離陣が25人もいた。7月の男鹿駅伝が人生初の駅伝で、Bチームで出場し、Aチームが優勝した。当時、男鹿駅伝は東北学生駅伝で9月に東北学連から第2回全日本大学駅伝の東北代表に推薦するとの通知が来た。部会が開かれた。1年の私は一番隅で聞いていたが、「昨年11月に駅のホームで見た、あの駅伝に出られるということ?」「覚悟をもって練習しよう」キャプテンの言葉で締めくくられた。補欠でも良いから出たい。合同練習の午後の授業は12月まですべてサボった。何とか補欠に滑り込めたが、先輩のケガで直前に出場が決まる幸運に恵まれた。この経験が人生観を大きく変えた。
 年男も6回を過ぎると人生を振り返るばかりで、一昨年あることに気が付いた。秋田大学受験の願書を2部もらったから一緒に受けに行こうと電話をくれた高校同級生の存在である。彼とは1年生だけ同級だったが、2浪の私に電話をくれたのだから付き合いはあったのだろうが、何せ高校生活に良い思い出がなく、その頃の記憶はほぼ抜け落ちている。
 願書を受け取るため母校の正門前で会い、彼は作業着に軽トラでやってきた。自分の土建屋を継いだほうが良いよ、と言ったことと、別れ際、軽トラ運転の笑った横顔を思い出した。あるNHKの番組に私が少し出たのを見たとして電話をくれた。電話番号と住所を聞いていて、 昨年の大晦日、歓待されてはと、突然に訪問した。53年ぶりの再会で、握手をして丁寧にお礼を述べた。間違いなく人生の恩人なのだ。私は50歳過ぎに顆粒球減少症から、彼も40歳代に顔を半分損傷する作業事故で臨死体験があった。昔の写真も見せてくれたが、そこに彼とは違う中学なのに私の中学の憧れの女性の写真があった。「この写真、何故持ってんの?」話をするうち少しずつ思い出して来た。そして奥さんが料理を運んで来て、「これ3回目の女房、女房は4回目やけどな」「そう言えば昔もなあ・・・」高校時代が少し懐かしくなって来た。
 
 春夏秋冬 <人生の恩人> から