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<ペンリレー>

発行日2023/05/10
おおくぼ脳神経・頭痛クリニック  大久保 敦也
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鉄道と私
 
 おおくぼ脳神経・頭痛クリニック 大久保敦也と申します。コロナ禍での開院のため、皆様にこの大きな顔を披露する機会もないまま2年が経過してしまいました。感染症レベルも引き下げられ、長いコロナトンネルからやっと抜けられそうです。みなさまとお会いできることを楽しみにしております。
 この度はさくら内科・糖尿病クリニック 粟﨑博先生からのバトンでペンリレーの貴重な機会をいただきました。ありがとうございます。
 さて、診断書以外に文章を書くことがめっきり少なくなり、「数千字の作文」というお題をいただいて、あまりのネタの少なさに日頃の平凡な生活への後悔を感じておりました。
 テーマが決まらないままふと視線を上げるとDD51形ディーゼル機機関車に引かれる24系25形寝台特急「出雲」の写真が目に入りました。毎年購入しているJR カレンダー。今年は「栄光の名列車」です。
 そうでした。鉄道ネタがありました。この機会に秋田の鉄道と自分の歴史を重ねて書かせていただくことにしました。
 私の父が国鉄(JR)職員だったため幼い頃から家には常に時刻表があり、本棚には鉄道ジャーナルというマニアックな雑誌が並んでいました。さらに実家が奥羽本線沿いにあったため毎日通過する列車を眺めて過ごし、時計を見なくても通る列車で時間がわかるほどでした。
 幼少期、父に連れられて自宅からほど近い秋田運転区(今の秋田新幹線車両センター)に行き、いつも窓から眺めている車両や夜間だけ走行する点検用の車両などを見せてらった時はワクワクしたものでした。今ではセキュリティーの面から立ち入ることはできないでしょう。
 小学生の頃は学校から帰ると線路上を歩いたり、鉄橋を渡ったりしながら間近で列車を見てドキドキしたものでした(これはもはや犯罪ですが…すでに時効ということでお許しください)。
 酒飲みの父は免許を持たず我が家には車がありませんでした。家族割引のため半額で乗車できたことが真の理由かもしれませんが、おかげで家族旅行は常に鉄道でした。何時の列車に乗って、どこで何に乗り換えて…と時刻表を調べながら計画を立てるのが私の役目でした。そのためか今でも時間にうるさく、家族からは煙たがられています。
 学校では地図旅行クラブなるものに所属し、時刻表を調べながらひたすら妄想旅行をするという怪しい活動もしていました。東京(上野)に行くには特急「つばさ」に乗って約8時間程度かかっていた時代です。
 東北新幹線が開業し、特急「たざわ」から盛岡で「やまびこ」、大宮で「新幹線リレー号」に乗り換えて東京まで約6時間に短縮されたのが1982年。修学旅行で初めて「やまびこ」に乗った時の感動はひとしおでした。
 中学生になると一人旅が許されるようになりました。国鉄時代のローカル線 矢島線(現在の由利高原鉄道鳥海山ろく線)や角館線(現内陸縦貫鉄道)に乗りに行ったり、東北各地へ出かけたりしたものです。いわゆる「乗りオタ」ですね。父から秋田に新幹線が繋がるかもしれないと聞かされ、自宅から見る新幹線の姿を妄想したのもこの頃でした。
 車に乗るようになってから鉄道の利用機会は減りましたが、鉄道愛が揺らぐことはありませんでした。1997年の秋田新幹線開業当初は、思い描いていたフル規格新幹線(高架線が出来て東北新幹線の車両がそのまま秋田までくるものと思っていました)とは異なる姿に少し落胆しながらも、昔から見慣れた自宅脇の線路をまあたらしいE3系こまちが走る姿を眺めて感動したものです。秋田-東京間は直接行けるようになり約4時間に短縮されました。その後国鉄は分割民営化されJR が誕生しました。
 私は働き始めてからも時間が許す限り移動は鉄道を利用していました。そして結婚し、子供が生まれると息子への英才教育開始です。プラレールや鉄道のDVD を買い与えて列車を覚えさせました。プラレールは30編成ほどありました。遠距離の家族旅行は基本的に鉄道を利用。ホテルは鉄道プラン(部屋から列車がよく見えて、鉄道グッズがもらえるプランがあるのです)を予約し、鉄道博物館に行き、SL に乗り、展望列車の最前列を予約し、運行終了が決まった寝台列車に乗り…。
 チケットが取れなかった寝台特急「あけぼの」「日本海」「トワイライトエクスプレス」のラストランを見に、駅や通過する線路脇まで行ったこともありました。
 2011年3月には東北新幹線E5系「はやぶさ」がデビュー。一番列車は数十秒でチケットが売り切れたためもちろん乗車することができず、北上駅のホームまで見に行きましたが一瞬で通過してしまい虚しさを感じたものでした。2013年に秋田新幹線が現在のE6系になりスピードアップが図られました。特急つばさ時代の半分以下、秋田-東京間は約3時間半にまで短縮され、日帰りで10時間程度東京に滞在することも可能となったのです。そんな鉄道の進化を見続けた実家ですが今や空き家となり、近々取り壊されることとなりました。50年の歴史をしみじみと感じます。
 まだまだ鉄道愛をお伝えしたいところですが、流石にここまでくると頭のおかしい奴と思われそうですのでそろそろ終わりにします。最近では迷惑行為でニュースになることも多い「鉄オタ」ですが、マナーを守って正しい鉄オタ生活を送りたいと思います。
 目下の目標は前述の寝台特急「出雲」の名前を継承し、現役で唯一残存する定期寝台列車「サンライズ出雲」に乗ることです。感染症を気にせず安全にゆっくり旅行ができる生活にやっと戻れそうですね。
 いまだに学会出張などはできるだけ鉄道を利用し、50過ぎのいいおっさんがビールを飲みながら車窓を眺めてニヤニヤしております。そんな姿を見かけましたらぜひお声がけください。
 ちなみに息子は父親の熱があまりに高すぎたためか、そこまでの鉄道愛に目覚めることはありませんでした。
 次は大学時代の同期で現在は秋田赤十字病院 耳鼻咽喉科にお勤めの木村洋元先生にバトンを繋ぎたいと思います。
 
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