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<ペンリレー>

発行日2023/04/10
秋田厚生医療センター  田村 芳一
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Re 青春(あをはる)するべ(か?)
 
 昭和50年大学入学で引っ越した札幌は、連日のように馬糞風が吹き、冬季オリンピック開催後でもまだ開拓時代の面影が色濃く残る街でした。ひとまず県人寮に落ち着き、だだっ広い構内を行ってみれば、学生運動の名残か殺伐とした雰囲気で、講義も暇だらけ。これは何か部活でもしないと身が保たない。全学(12学部)弓道部にしたのは、勧誘デモの不器用さがツボにハマったから。
 明治37年創部という道場に入ると、上座壁には「正射必中」の額と歴代師範の射の写真が掲げられ、中には大正か昭和初期に大雪山中で撮られたものも。普段の部活は掃除の後、16時20分に整列して礼で正練(正式練習)開始。組立ち四つ矢5巡の各人20射の成績を係が分附し、後は自由練習です。射場と的の付けられた安土(あづち)、その間の芝地を矢道(やみち)と呼び、格好のジンギスカンコンパ会場にもなります。正練終わりには再度安土に向かって整列し、主将の「澄ま~し」の掛け声で正座。しばしの後「起立」で立ち上がり「礼」をします。シンとする「澄まし」の間は、微かな風や虫の音、月明かりが沁みてくる至福の時間でした。慣れない正座で足の痺れた新入部員が、礼をする皆の前をヨロヨロ矢道に転げ落ちていくのもご愛嬌。新入部員にはメンター的な「師匠」が配され、この「師弟関係」は極めて濃密で、部活の枠を超え生活全般に及びました。経験者ご周知の通り、弓に見立てたゴム引き、それを弓に換えての素引き、巻藁前練習と続き、12月頃に許可が出てやっと的前に立つ儀式「初的(はつまと)」を迎えます。無事終わり、後ろで気を揉んだ師匠となじみの安居酒屋に繰り出して、「お前なあ~」とひとしきり盛り上がる光景が今も目に浮かびます。道場は自主管理で寝泊まりも自由。的前に立ってからは、ほとんど0時過ぎまで居残る生活でした。いきおい帰寮は午前様で、行事はおろか晩飯、風呂も間に合わず、1年で退寮して後に主務(チーフマネジャー)となる同期と共同生活へ。
 そうこうするうちの3年目、今度は主将をやる羽目に。状況からある程度覚悟はしていましたが、何しろ専門課程に進み基礎系の講義や実習が始まるタイミング、両立はそれなり大変でした。たとえば解剖実習。もちろん必修で、献体の篤志に対する敬意は絶対です。しかし実習が終わる遥か前に始まる正練、といって自分だけ遅れればグループの仲間に迷惑がかかる。中座して正練終了後21時くらいに戻り、広い実習室でポツンと一人作業する日々が続きました。誠にけしからん医学生でした。加えて試合の多さ。東北大、札幌医大、北海学園大、小樽商大(年2回)、札鉄体育館との各定期戦、全道選手権、地区体育大会、全日本選手権、七帝戦、争覇戦、王座戦、学連新人戦、小樽商大新人戦、等々。部内行事も含めると週末の半分以上が潰れる計算。道外遠征は電車、連絡船の乗り継ぎ、道内でも遠いと泊まりです。試験もまともに受けられず、知らないうちに終わっていたり。アウェイは遠征軍と称し、主将が頃合いで前口上を発し、全員で寮歌を謳いながら敵方道場に参上する習わし。さすがに東京や京都ではどん引きされました。思い出深いのは伊勢神宮弓道場の王座戦です。凛とした空気と静寂に包まれ、宵闇の中でサーチライトに浮かび上がる矢道の鮮やかな緑とその先の白い的。安土の屋根には淡い月がかかり、衣擦れの気配と弦音、パシッという的中の音だけが淡々と時を刻む。すべてが報われるひと時でした。
 さて当時口端に上ったのが、「弓と禅」という本。後にアップル創業者スティーブ・ジョブズの愛読書の一つとして注目を浴びます。かねて日本的神秘主義に興味を抱いていたドイツ人哲学者のオイゲン・ヘリゲル氏は、折よく東北帝大から講師として招聘され仙台に赴きます。第一次大戦の参軍経験をもつ氏は銃射撃の腕に覚えがあり、弓を通じてならアプローチしやすかろうと考えます。当時の同大弓道師範は弓聖とも称された阿波研造範士でした。弟子入りを許されてから帰国まで6年ほどの修行体験が本書です。しかし「射道八節」の一連の流れの中で、氏には、弓を引き絞った状態で狙いを定める「会(かい)」から、矢が放たれる「離(はな)れ」に至る過程がどうにも理解できない。師匠は、呼吸だけに集中し筋肉を使わないで弓を引け、放とうとする意志を持たずに矢が離れるのを待て、あなたが放つのではなく”それ”が放つのだ、と禅問答のような話。ならいったい私は何をするのか痺れをきらした氏を、師匠は夜の道場へ誘(いざな)います。そして、すっかり灯りを消した安土の的の前に一本の線香を立て、甲乙一手2本の矢を射るのです。灯りを点けてみると、甲矢(はや)は図星を射抜き、乙矢(おとや)はその甲矢の筈(はず)を打ち割っていたそうです。呆然とする氏に師匠は言います。「私ではない、”それ”が射たのです。」 そして修行を続けたある時、「離れ」が出ます。師匠は氏に向かい、「今、”それ”が現れました。」と叫びます。ちょっと盛ってるだろうという向きは、復刻版が出ていますので読んでみてください。
 私が入部した頃は、戦後の解散命令による活動休止をはさみ、昭和11年から高畠太郎範士が師範でした。先生の師匠であった森範士は、「捨ての弓」という弓道思想で知られたと部史にあります。高畠先生の遺稿集から拾うと、「弓道は心を洗うもの。洗うということは、そのものの素地を出すことだ。」「弓道の修行とは、色々な小細工や、飾りを身に着けることではない。修行とは身についた醜いものを一つ一つ捨てていくことだ。」「捨て果てた挙句に残ったものが『お前の弓』だ。」 ジョブズの遺したものと通じる感じがしませんか。
 私はといえば、主将を代わり同期も卒業していった頃から、次第に道場への足が遠のき、一旦のつもりで置いた弓も気がつけば寝る間も覚束ない研修医時代。いつしか40年以上が過ぎていましたが、この程度でもいい弓を引けていると思える瞬間が二三度ありました。早朝の林のような柔らかい光の中、心身ともにリラックスしきってぼんやりと的を見つめ、それをもう一人の自分が感じているような不思議な感覚・・・。
 昭和48年発行の創部70周年記念部史に、高畠師範が「去来の弁」と題して寄稿された一文です。「昨四十七年、東京で開催された北弓会(毎年夏の全日本選手権に出場する遠征軍の慰労と近況報告を兼ねて、神田の学士会館で催される在京主体のOB会)に参列する機会を得て、一夕、楽しい数刻を過した。・・・久闊を序し、健康を祝し、追憶を語り合ううちに一つのことに気がついた。それは大部分の方が、現在は、弓から遠ざかっていることである。しかし、弓に繋る縁で、道を遠しとせず、六十余名が一堂に会したことは、引くことからは遠ざかっていても、弓からは遠ざかっているのではないことを知った。・・・俳人芭蕉の高弟「去来」に、「鷸(しぎ)なくや弓矢をすてて十余年」という私のすきな句がある。武の道を捨て、風雅の境に遊んだ「去来」が折りにふれ、胸中を横切(よぎ)ったのは弓矢の道であったのであろう。この句がそれを語る。北弓会に集った人々のみならず、在部生活を送った数百の人にも、この句の境地に誘い込まれることであろう。」
『願わくは 玄衣の青年よ 玄天に玄光を放つ 玄武の士となられんことを』 
 玄武の士となることかなわず末席を汚すだけだった、不肖の弟子の胸には刺さります。近頃、昔の仲間の時候の挨拶に、「定年を機にまた弓を引き始めた」と添え書きされてきます。だがしかし、弓矢はじめ弓懸(ゆがけ)、胴着・袴、矢筒、その他諸々の備品まで揃えるとなると・・・、また道具だけ揃えて~、と言われること必至。Re 青春(あをはる)するべ、かどうか・・・、心のどこかで思い悩んでいる自分がいます。
 次はいつも助けてもらい、今回も快く引き受けてくださった松岡悟先生にバトンタッチします。
 
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