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<ペンリレー>

発行日2022/01/10
いとう内科胃腸内科クリニック  伊藤 紘朗
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追憶の自転車旅行in America
 
 外来中「ツヤさんから御電話ありました」とメモを渡されました。
 どのツヤさん?
 ツタヤさんで借りたDVD返してなかったっけ?と折り返し電話をしたら‘あの’津谷さん、角館中学時代の同級生、津谷裕之先生からでした。

 思い起こせば35年以上前、少年津谷は上品な佇まい、誰からも愛される性格、さらには超絶天才で全生徒の羨望の的でした。廊下で目が合っただけでテストの点数が20点上がった生徒がいたとか、優秀過ぎて担任の先生が授業中失禁したとか、本当はもう大学を卒業しているらしい、などの都市伝説、いや田舎伝説を作った‘あの’‘津谷’先生からの連絡でした。
 長い月日は人を変えていくものですが、電話の津谷先生の「次のペンリレー書いてよぉ」と甘いトーンは変わらず、「いいよぉ」と軽いトーンで返してしまいました。今となっては、まんまと津谷マジックにかかってしまったことを我ながら感心してしまいました。

 このコロナ禍では気楽な海外旅行は当分出来ないと言われております。出来ないと言われると、したくなるのが人間というもので異国への思いを馳せながら学生時代の海外旅行について書かせて頂きます。

 元々ダラダラと無駄に日々を過ごすタイプのため、大学の長期休みもいつもあっという間に終わってしまい、毎回何もしなかったと後悔しておりました。
 4年生になる春休み、もう医者になったら出来ない事をやってみようと部活の仲の良い後輩と計画しました。デカい事するなら、みんなビビる事やろう、それならやっぱりアメリカだなと「アメリカ横断ウルトラクイズ」世代の私は直感いたしました。

 西部開拓時代に憧がれていた私は当初、馬に乗ってアメリカの西部を旅するという壮大な計画に息巻きましたが、馬に乗るのであれば日本でも出来るし、そもそも馬に乗ったことないっしょと冷静な後輩に指摘されました。そこで考えたのが自転車です。それでは「アメリカ横断ウルトラ自転車旅行だ!」と興奮しましたが、それでは新学期の実習に間に合わなくなるとまたも諭され、1か月くらいの丁度良い距離の縦断に目標を変えました。

 当初は鼻息も荒く摩天楼ニューヨークから最南端キーウエストまでの縦断旅行だと考えましたが、距離的にまず無理という事が判明し、スタートラインをメンフィスに変更しました。メンフィスは敬愛するエルビスプレスリーの出身地、壮大な旅のスタートとしてはニューヨークよりも意味のある場所なのだ、ということにしました。
 しかしまだまだ短縮が必要でしたので、アトランタからデイトナビーチの旅と決めました。時間的に無理なのでどんどん短くしました~となると何だか弱っちく、男らしくないので、アトランタはこれまた我が敬愛するキング牧師の墓がある場所だ、これが約束の地なのである、と後輩とうんうんと頷いて納得するようにしました。なんでも敬愛する・・・と書くと、それが何だかもっともらしくなっていきます。

 バイトで貯めた旅行出来るギリギリのお金を握りしめて日本を出発し、ポートランドを経ていよいよアトランタに到着しました。これが実は私にとって初めての海外旅行でした。
 「やっべ~全員外人・・・」というのが到着最初の感想でした。当たり前です。

 アトランタは全米有数の大都市であり犯罪都市でもあります。しかも南下する際に犯罪危険区域を通らなければならず、誰もいない明け方に出発することにしました。前日にキング牧師のお墓をお参りし、ぶつぶつと道中の安全を祈願しました。困ったときのお祈りは和洋折衷です。仮眠後、現地で購入したマウンテンバイクにさっそうと乗り、さあ出発です。泥酔中の白人パリピにからまれ、また酒瓶を持ちラップを歌って追ってくる巨体の黒人から逃げ、鳴り止まないパトカーのサイレンを聞きながら夜明けのアトランタを脱出して一路南へ向かいます。

 最初は快調に飛ばしていましたが、長時間自転車に乗ることは殆ど無かったので次第にお尻が痛くなります。炎症を起こしてお尻が痛くて、痛みに堪え座って漕ぎ、耐えられず立ち漕ぎそして疲れ、を繰り返しました。二人とも尻痛のため、連日ケツ~ケツ~と唸りながらセイウチの様にうつ伏せで寝ていました。疲労とお尻の痛みで、3日でもう嫌になりました。後輩とは意地の張り合いで、お互いもう止めたいけど最初には言いたくないというチキンレースが続いていきます。次第に自転車に慣れて、またお尻の皮が厚くなるにつれて楽しい旅行へと変わっていきました。

 1日100㎞前後走って、疲れて果てて適当なモーテルに泊まってまた出発を繰り返す毎日でした。日本人が珍しいようでいつも声をかけらます。アメリカ人はとてもフレンドリーで親切な方々が多く、毎日「ヘイ、おめぇら、どこから来た?」と聞かれました。「日本からチャリ乗って来たぜ」とアメリカンジョークのお膝元で軽口をたたくと、「ヒーハー、クレイジー野郎だぁ」と誰かいつも何かを奢ってくれました。

 ある日走り疲れて公園で休んでいると、小さな男の子達が私の前にやってきて、「日本人なら忍者かい?」と聞かれました。期待されたら応えるのが私の信条なので、子供達の夢を壊さないように、「日本人はみな忍者マンだ」と悠然と答えました。わらわらと子供も大人も集まってきたので腹をくくって青空忍者教室を開きました。勿論完全に適当です。最後に皆でそれっぽくお辞儀をして忍者教室を終えた後、後ろで見ていた地元の新聞社から取材を申し込まれたので、忍者は秘密組織なので新聞には出られないことを真顔で伝えて慌てて逃げました。あの子供達が大きくなって、自分の子供達に私が教えたインチキな忍者の型を教えてれば面白いな、と今は思い出し笑いをしています。

 気持ちの良い天気の日には湖畔で会った老夫婦と一緒に釣り競争を楽しみました。「昔は日本と戦争をして親戚も亡くなったが、今はもう仲間、兄弟だ。でもまさに今は釣り戦争だな」と優しくユーモアを交えて語ってくれました。この旅行では知り合った方々は皆おおらかで温かく、出逢いにいつも感謝しながら旅をしました。
 ゆっくりと1か月かけてゴールのデイトナビーチに着いたときは、充実感よりも、もう終わってしまうのかと残念になるくらい充実した日々でした。

 アトランタを脱出した時の朝焼け、地平線まで続く一本道、真夜中に遭難しかけた時の降ってきそうな満天の星々、どこまでもついてくる可愛い野良の子犬達、自転車をかついで歩いていたら電車が来て、映画「Stand by me」のように必死で走った線路、25セントをかけての地元住民とのビリヤード、スパナを借りに行ったら泥棒と間違えられ、工場従業員に銃で撃たれそうになって初めてやったお手上げのポーズ、そして痛かったお尻・・・、今でも綺羅星のように思い出が蘇ってきます。

 一緒に旅した後輩は、今ではアメリカの大学でウイルス学の准教授として大活躍しています。先日久しぶりにSNSで話しましたが、あの旅行は最高のクレイジージャーニーだったと笑っておりました。
 コロナが終息して自由に旅行できるようになることを祈りながらペンを置きます。

 次回はいつも本当にお世話になっております阿部クリニックの阿部豊彦先生にバトンをお渡しいたします。津谷先生の医局の大先輩でもあり、快くお引き受け頂きました。本当に感謝申し上げます。
 
 ペンリレー <追憶の自転車旅行in America> から