世の中には、いろいろと美味しいものがあります。お寿司とか、フランス料理とか、中華料理とか、いろいろあります。秋田市内にも、食通を唸らせるお店やレストランがありますが、なんといっても、私の一番好きなご馳走は、「タラの芽」です。なんだ、そんなもん、近くのスーパーでも、売っているよ!と、思いでしょう?この場合の「タラの芽」は、自分の足で歩き、摘み取った「タラの芽」を指します。 昔、「美味しんぼ」というマンガを読んでいた時に、私は、恥ずかしながら、この「ご馳走」という意味をはじめて知りました。ある場面で、海原雄山が山岡士郎に、「ご馳走の『馳走』は、本来、「走り回ること」「奔走すること」ということだ!」と、言っていたのが、あまりにも私には衝撃的で、それ以来、馳走の意味を考え、自分なりには、私にとっては、この「タラの芽」が、ご馳走だと考えるようになりました。 その「タラの芽」は、以前は、比較的容易に採取することができたのですが、最近は、明らかに別の場所から来た本職と思われる方が多く、競争となってきています。さらに、野生の「タラの芽」は、スーパーが高価買い入れをはじめたせいか、タラの芽の枝ごと刈り取るという、乱獲がはじまってしまいました。枝が刈り取られると、その木は、枯れてしまいます。枝の一緒になった「タラの芽」は、大きな水を張った樽に入れられ、芽が大きくなった時に、採取され、商品として売りだされるのです。 子供の時に、私は、父親から、「タラの芽を取る時は、全部の芽を摘み取ってはいけない。全部摘み取っては、その木が枯れてしまう。」と、教えられたものでした。今、枯れ果てた木を見つけては、とても悲しい気持ちになります。昔は、ルールがあったのに、現在の商業主義が残念でなりません。 さてさて、話を戻します。「タラの芽」を取るためには、やはり、戦略が必要です。無残に刈り取られた木がある一方で、以前として、毎年、自然の恵みを分け与えてくれる木々があります。これらは、生い茂った葉っぱに隠れ、生き延びているのです。このような木は、すぐには、発見できません。この生き残りを見つけるために、私のやっていることは、早春の探索行動です。つまり、春になっては、「タラの芽」の発見が困難になるので、晩冬から早春に、目星をつけておきます。頭の地図に「タラの芽」ポイントをブロットしておくのです。こうすることで、周りが葉っぱで覆い隠されていても容易に発見できます。 こうして苦労して手に入れた「タラの芽」は、格別です。家に帰り、小麦粉を軽くまぶして、天ぷらにします。軽くお塩を振りかけるだけで、春の香りと心地よいほろ苦さを堪能できます。冷酒とともに「タラの芽」を味わえば、また、明日からの活力が湧いてくる最高の「ご馳走」です。
|