東京で桜の話題が聞かれると、あと半月程で秋田にもようやく春が訪れるのかと落ち着かなくなる時期である。それにしても今年の冬は寒くて長かった!それゆえ春の喝采は計り知れない物となりそうです。春といえば花見、桜ということで、花見、桜に関する基礎知識を取り上げてみました。 これを読まれる頃は、おそらく葉桜となっているでしょう。タイムリーな話題提供でなく申し訳ありませんが少々お付き合いくだされば幸いです。
1.花見のルーツ 奈良時代は、花といえば梅や萩をさしていました。当時、梅は中国文人達に大変愛されていた花だったため、中国文化を理想としていた当時の日本にとって梅の存在は重要でありました。日本に梅がもたらされたのは奈良時代、遣唐使が薬用として持ち帰ったのがルーツのようで、白梅、次いで紅梅が入ってきていたそうです。特に紅梅は人々の心を奪ったようです。万葉集には萩の歌が141種、梅が118種詠まれていたのに対し桜はわずか44種しか詠まれておりません。 遣唐使の廃止以後、独自の文化を形成していく上で、中国的な花でなく、日本固有の花が好まれるようになりました、やがて梅は桜へと交代してしまい、平安後期に入ると宮廷を中心に桜が様々な行事で脚光を浴びることとなりました。平安の貴族たちは桜の花に心を躍らせ、桜を愛でては歌を詠み、宴を開いて楽しんだといわれています。
「久方の 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るなむ」 (大空の日の光のゆったりとした春の日であるのに、 なぜに桜の花はそわそわとせわしなく散るのでしょうか。)
更に安土桃山時代では、秀吉は吉野山や醍醐寺の三宝院の桜をことのほか愛し、歌を詠み、能を舞い豪華絢爛な宴を楽しんだといわれています。 庶民が花見に熱狂するようになったのは江戸時代からで、それまでは上流社会だけの文化でした。江戸の桜の殆どが奈良県の吉野山から移植したもので、家康、秀忠、家光など花好きの将軍によって植栽が盛んに行われ、参勤交代で江戸は品種交流の場ともなり数々の名所も出来るようになり花見は一般化していきました。特に吉宗の時代は放火が多く、人心を安定させるために花見を推奨したといわれています。 時代が移るにつれて花見は公家から武家、近世には都市住民のものとなり、今日に至ったといわれています。
2.桜のマメ知識 桜は10種類の原種をもとに、それらの交配種で100種以上が野生化し(このような野生種、自生種を「山桜」といいます)、さらに人の手で栽培されたのが300種類以上もあります(このような栽培種、園芸種を「里桜」といいます)。また「八重桜」は里桜の八重咲の品種の総称です。
「山桜」 古くから山に自生しており、昔の花見は山桜だった。吉野山の山桜が有名。 花と葉が同時に開く。関西では染井吉野よりも人気がある。 主に本州中部以南に自生。
「大山桜」 花が大きく紅紫色(山桜より濃い)なので、“紅山桜”とも呼ばれる。寒さに強く北海道に多いため“蝦夷山桜”ともいう。花と葉が同時に開く。 本州中部以北に自生。
「大島桜」 伊豆地方に自生しており、花が大きく香りもよい。丈夫で成長が早い。桜餅を包む葉は、大島桜の葉を塩漬けにしたもの。花と葉が同時に開く。
「霞桜」 白っぽい色をしているので霞がかったようだとその名がついた。花と葉が同時に開く。花期は山桜よりずっと遅い。 北海道、本州、四国に分布し山桜に似ている。
「江戸彼岸桜」 お彼岸の頃に開花するのでその名がついた。枝が長く垂れる「枝垂れ桜」は江戸彼岸桜の園芸品種。とても丈夫なので各地に巨木や銘木があり、日本三大桜※も江戸彼岸桜の系統。花が咲いた後、葉が出る。 本州、四国、九州と広く分布。
「豆桜」 花が小さく、挿し木でも育つので盆栽としても人気。花が咲いた後、葉が出る。 富士、伊豆、房総を中心とする地方に自生。
「緋寒桜」 早春の寒い頃から開花し、濃いピンク色をしている。釣鐘のように垂れ下がって咲き、花びらがくっついたまま落花する。花が咲いた後、葉が出る。 中国南部、台湾に広く分布するが、古くから琉球列島や鹿児島に入り、石垣島や久米島などに野生。
「河津桜」 大島桜と緋寒桜の自然交配種で、静岡県河津町で発見されたことに由来。1月下旬から咲きだし、おおよそ1か月咲いているため、話題になることが多い。花が咲いた後、葉が出る。
※日本三大桜 1.山高 神代桜(山梨県北巨摩郡武川村)樹齢2000年以上 2.根尾谷 淡墨桜(岐阜県本巣市)樹齢1500年以上 3.三春 滝桜(福島県田村郡三春町)樹齢1000年以上
3.染井吉野(ソメイヨシノ) 日本(沖縄と北海道を除く)での桜の80%がソメイヨシノだといわれています。ソメイヨシノは江戸時代末期に、染井村(現在の東京都豊島区)の植木屋が、大島桜と江戸彼岸桜を交配して作り出したもので、当初は桜で名高い吉野の桜にあやかり「吉野桜」という名でしたが、吉野山の山桜と間違えやすいため「染井吉野」と改名された。 この新品種が国民的人気を得たのは、大島桜の華やかさを、花が咲いた後で葉が出てくる江戸彼岸桜の特徴が引き立ててくれたためで、父母の利点を上手く受け継ぐ逸品だったからです。 植栽してから15年ほどすると花付が良くなり、20から40歳の期間は見事に花を咲かせることから明治時代以降に全国の学校、公園、沿道、河川沿いなどに次々と植えられていきました。ソメイヨシノは観賞用として交配したため、自力で繁殖することができません。全国にあるソメイヨシノは、一本の原木から接ぎ木や挿し木で増やした、“クローン”そのため同じ条件で一斉に咲きだし、お花見や観測に適しているわけですが、成熟期を過ぎると次第に樹勢が衰え、50歳を過ぎると衰えが目立つことが多くなります。特に管理が悪い場合には樹勢の衰えは進行します。100年も花を咲かせるソメイヨシノは珍しいくらいといわれています。維持するには長期にわたって管理計画が必要になるといわれています。何やら私たちの人生にも通じているような感じです。
4.秋田角館の桜 (1)武家屋敷の枝垂れ桜 武家屋敷の黒板塀に映え、見事な景観を醸し出す枝垂れ桜。その歴史は古く、今からおよそ320年前の藩政時代にさかのぼります。角館佐竹家の二代目、義明の妻がお輿入れの際に京都三条西家から持ってきた嫁入り道具の中にあった3本の桜の苗木。それが元になり長い年月を受け継がれ、今日まで残る「角館の枝垂れ桜」になったと伝えられています。現在450本ほどある枝垂れ桜の中で、162本が国の天然記念物に指定されています。 武家屋敷通りの桜並木の90%以上が、この「エドヒガンザクラ」の変種である枝垂れ桜です。 日本では多くの桜が天然記念物に指定されていますが、枝垂れる桜の国指定は少ないと言われます。角館の枝垂れ桜は群れて咲く景観が評価されました。しなやかに伸びる枝に細く連なる白と淡紅色の小さな花びら。風情ある城下町に、武家屋敷の両側から垂れ下がる桜の木々が見事に調和しています。京をしのぶ、樹齢300年の枝垂れ桜の華麗な姿は訪れる人々の心を和ませてくれるでしょう。
(2)桧木内川堤の染井吉野 町の中心部を流れる桧木内川堤に咲き誇るソメイヨシノ。1934年に天皇陛下のご誕生を記念して植えられたのが始まりです。現在では、全長2キロにおよぶ桜のトンネルがつくられ国の名勝にも指定されています。ソメイヨシノは環境に強くまた、緑の若葉が出る前に木全体を覆うように淡紅白色の花をつけるという特徴を持つため、満開時には花びらが豪快に枝を飾りその様子は大変見応えがあります。 日本では川の堤防に桜を植えるというのは珍しいことではありませんでしたが、1972年ごろ、樹木が根をはると堤防に穴があき、そこから水がしみ込むと堤防が崩れてしまうと考えられ、堤防上には樹木を植えないという規則が河川法で定められました。それに代わって芝を植え付ける方式がとられたのです。桧木内川堤も例外ではありませんでした。町民が丹誠込めて育て上げた桜の木が切り倒されてしまうかもしれないという危機に面したのです。 「どうにかして桜を残したい」着々と計画が進む中、町民が講じた案は「桧木内川堤の桜を法律で守ってもらおう」という考えでした。河川法に対して文化財保護法を使う、すなわち桧木内川堤2キロの桜のトンネルを残すために国の指定で文化財として法で守れるようにしようと考えついたのです。結果、町が議会に提案して堤を町道に認定。「堤防上の桜」は「並木道としての桜」となったことで切らずに残され、さらにその景観は川の緩やかな流れと調和して、まさに名画のような美しさであると評価されたのです。こうして桧木内川堤の桜が、国名勝の指定を受けるに至りました。まるでメルヘンの世界に誘われるように広がる桜色のトンネルには、町の人々の桜に寄せる熱い思いがたくさんつまっているのです。(角館観光協会HPより)
次回を審査会で大変お世話になっている緑ヶ丘病院の高橋賢一先生にお願いをしております。
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