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<ペンリレー>

発行日2004/11/10
介護老人保健施設「悠久荘」  神部憲一
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忘れられない患者さんたち
 
 医師になってから四十数年の間に関わった忘れられない患者さん数人について記してみます。
1.昭和37年に弘前大学附属病院で初めて一人での産直(お産当直のこと)をやった時のことです。初産直は12月31日でした。明け方までは何事もなく、もう少しで直明けという時に分娩があったのですが、生まれたのは無脳児でした。元朝にお産と来れば普通は二重に目出度い事でしょうが、余りにも気の毒で産婦本人には「赤ちゃんは体が弱いので今治療している」とだけ告げました。児は約1週聞後に死亡しました。

2.翌年に青森県下北郡大畑町立病院に勤めました。悪性繊毛上皮腫(当時。今の繊毛癌)の末期で膣や外陰に多発性転移があり、そこからの出血に苦慮している症例がありました。院長の代直(代理当直)をしていた深夜に、手の施し様もない程の大出血を起こし、患者は「院長先生!院長先生はまだか?」と絶叫する始末です。私もどうすることも出来ずただ厚くガーゼを当てて圧
迫してはみたものの、とてもこれで止血するような代物ではないのです。そうこうしているうちに院長が見えたら「あ、院長先生…」といって息絶えたのでした。恐らくは、「こんな若造の前では死ぬにも死に切れない」と思った事でしょうが、それにしても院長が見えるまでは生きようとした精神力と主治医に対する信頼の厚さとには全く圧倒されてしまいました。
 この頃に、一戸 忠先生には大変お世話になりました。多謝!!

3.同じく下北郡大間町立病院時代の一件です。当時この町には開業助産婦がおり、時々妊産婦宅へ往診を依頼される事がありました。ある猛吹雪の夜に、町の中心部からは大分離れた地区で分娩が進まなくなった産婦がいるので往診してくれとの電話があり、とりあえず普通の往診用物品の他に、産科鉗子・縫合器材・酸素ボンベ等を積み込んで、病院の助産婦を伴って出発しました。この町では普段は真冬でも風に吹き飛ばされて、雪はあまり積もらないのだそうですが、この時はあちこちに吹き溜まりが出来て通行の障害となり人家の見えない所で病院の車が立往生してしまったのです。産婦の事は気になるし、患家には近付けないし途方にくれてしまいました。現在のように除雪車の活動もなく、又、暖冬でもなかった時代の事です。そうしているうちに、チラチラとした光と共に約20人位の人たちが、スコップで除雪しながら近付いて来るのです。この人々は、病院の車が来ないので、大雪で難儀しているだろうと救援にかけつけてくれたのでした。やっと患家に着き産婦を診察した所、全身の高度浮腫で目も開けられず、血圧は上昇し、尿は出ず、分娩停止の状態で児心音は聴取不能でした。そこで、家族には、赤ちゃんは残念乍ら駄目だが、産婦を助けるために児を器械で取り出す旨を告げて了解を得ました。しかし、鉗子手術は何回も行った事はなく、自信もなく、未熟な産科医にとっては荷が重過ぎたのですが、何とか児を娩出させました。4kg超の児は既に死亡しておりました。胎盤娩出後、産道裂傷を縫合して帰院したのですが、翌日から大小便が出ないとの事で往診しました。長時間に亘って児頭が骨盤に嵌頓状態になっていたので直腸・膀胱が麻痺していたらしく、排尿・排便は仲々できなかったので、利尿剤・下剤の他に民間療法(?)で、温めた食塩を紙に包んで患部に当てる方法等も行った所、約1週間後には尿、便ともに順調に出てくれたので、さすがにほっとしたものでした。


4.何年か経って、今度は秋田県平鹿郡大森町立病院に勤務となりました。冬の真夜中に町立の山間の地区から、妊婦が腹を痛んで苦しんでいるので往診してくれとの電話が入りました。今のように除雪が行われていない時代の事とて(自動)車は通れない場所でしたから、農耕用トラクターに大きな橇を連結して迎えに来てくれたのでそれに乗って出かけました。急げば急ぐ程キャタピラーの飛ばす雪の塊が遠慮会釈なく当方の顔面へと飛んで来るのですが、妊婦の事を思えばこの位のことは我慢の範囲内でした。患家に着き妊婦を診ると、最終月経から考えたより大分大きな腹部でした。児心音も胎動もなくしかも重症妊娠中毒症でした。これはきっと胞状奇胎だろうと考え、家人に話して、例の橇に乗せて入院させました。教わっていた通りに、まず血管確保(補液)してからゆっくりと頚管を開大していくと奇胎の粒が2,3個流出して来たので補液に止血剤を加え、子宮収縮剤をゆっくりと流しながら控え目に子宮内容除去術を行ったのですが、こんなに出ても大丈夫かと思う程の量になりました。2~3日後に再掻爬術を行い、数日後に無事退院しました。奇胎除去術の際の注意点を詳しく教えて下さった恩師に改めて深く感謝したものです。

5.約半年位経ってから、北秋田郡比内町立扇田病院に転勤になりました。ここでは前回帝切分娩の産婦で、児は無事生まれたものの胎盤が前回の手術創部に付着していたらしく胎盤娩出と共に大出血が起きました。これは子宮全摘術しかないと判断して、副院長(外科〉に麻酔を、大館市で開業して間もない元当院勤務の先輩立石洋介先生に執刀をお願いしました。お蔭で手術は無事終り、幸い救命できました。この産婦にとって二人目のお産でした。

6.8年余り後に大館市立総合病院に移りました。大館でも色々ありましたが、ある日曜日に、能代市の救急車が産婦を搬送して来ました。救急隊の話では、「能代の産婦人科の先生方は研修会で不在のため」大館へ搬送して来たと言っていました。患者は首都圏からの里帰りで、能代市より青森県寄りの某町の人でした。産婦は重症妊娠中毒症で既に児心音はなく、母体救命目的で帝切の準備をし、家族にその旨を伝えて了解を得ました。開腹してみると子宮壁の大部分が暗赤色に変色しており、児は死亡していました。児と胎盤とを娩出させて、さてこれからどうしようかと考えました。これ程までに子宮壁に血液が浸潤した状態では子宮全摘術を行うのが通常の術式である事は知っていたのですが、初産婦であった事、幸い止血状態が良かった事もあり協同術者の千葉敦子先生(現、八郎潟町)と相談し、次回妊娠の可能性を残して、子宮摘出は行わずに手術を終え、無事退院できました。能代市のN先生には事の経緯と手術所見、術式とを御報告致しました。後日、N先生御自身が、お礼にと見えられたのにはびっくりするやら感激するやらで大変でした。

7.同病院の職員の件ですが、片側の卵巣癌でした。開腹してみると肉眼的には片側のごく一部にしか病変は見当らず、未妊婦でもあり、将来の妊娠の可能性を残す事にして、病側の卵巣卵管摘除術を行い、抗癌剤を腹腔内に入れて閉腹しました。その後著変なく過ごしておりましたが、平成14年3月末、大館市立総合病院退職者送別会の折、終了間際に、この職員から花束と手紙とを頂いたのですがあの手術後に生まれたお子さんが、お蔭で高校生になりましたとお礼を言われて、喜びも一入でした。

手紙にもその事が詳しく記してありました。この件も千葉先生と働いていた時の患者さんでしたので、後日、この職員の「感謝の気持」をお伝えしておきました。



 
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